こんにちは、つぐっと(@tsugutto)です。
今回は、「100の思考実験」より、5つめの問いです。
今回は、「わたしを食べてとブタに言われたら」という題名の問いになります。
どんな内容になっているのでしょうか。
それでは、いってみましょう。
「わたしを食べてとブタに言われたら」~動物の尊厳とはなんだろう?~ 概要
40年間ベジタリアンとして生きてきた人がいた。
そんな彼が肉料理を食べようとしている。
1週間前にこんなブタとニワトリに出会ったからだ。
遺伝子操作により話すことができるブタがいた。
ブタは食用になることを望んでおり、そのために生きていると言ってきた。
また、脳がない状態のニワトリがいた。
いわゆる自分や周囲への意識はなく、痛みや喜びもないニワトリだ。
これらのブタやニワトリを食べることにやましさはなく、むしろ、食べないと失礼だと彼は思った。
それでも、これらのブタやニワトリの料理を目の前にしたベジタリアンの彼は強烈な吐き気に襲われた。
それは、ベジタリアンとして生きてきたことによる拒否反応なのか。
あるいは、当然ともいえる精神的苦痛が身体に現れたのだろうか。
なんとか気を落ち着かせて、ナイフとフォークを手にしたが…。
「100の思考実験 5.わたしを食べてとブタに言われたら」より要約抜粋
動物の尊厳とは何か?動物の命の価値は何か?
という問題。
「わたしを食べてとブタに言われたら」について思考する
また難しい話ですね。
食用に飼育されている動物にも命がある。
それを、人間の都合で命を奪ってもいいか…という話ですよね。
もしくは、もう少し大きく言うと、すべての命は平等といった話がある中で、人間は人間以外の生き物を、自分たちの都合で命を奪うことがあるがいいのか…というところでしょうか。
まずは、「尊厳」という言葉について意味を調べてみます。
「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。」
またまた難しい意味になりますね。
対象となるものを、大切にする、価値をみとめる、そんな感じになるでしょうか。
では、動植物を大切にしたり、価値を認めているか…というと、ペットや植木、動物保護、自然保護、絶滅危惧種設定…なんて形で大切にしていると思います。
むやみに命を奪ったりはせず、家族の一員として大切にしたり、保護したりしますよね。
では、食用とされている動物や、野菜、養殖した魚介類などはどうでしょうか。
人間が食べるために育てているため、当たり前に命を奪って食べますよね。
食べることに感謝することはあっても、動植物側が理不尽に命を奪われることに罪の意識を持つ人は少ないと思います。
ペットは可哀そう。
家畜は仕方がない。
絶滅危惧種の虫は命を奪ってはダメ。
蚊やゴキブリは平気で命を奪う。
ペットと家畜、絶滅危惧種の虫とゴキブリ。
命の重さや価値は変わらないという認識が一定の割合であるはずなのに、行動は矛盾していると感じます。
では、なぜ対応に差が生まれるのか。
それは、どれも人間側が設定した価値だからだと考えます。
ペットとして、家族の一員として飼育する。
食べるために育てる。
数が少なくて貴重な虫だから。
人間に害をもたらすから。
生理的に受け付けないから。
そんな、人間側の都合で、人間以外の生き物の価値を決めているので矛盾が生じていると考えました。
おそらく、動植物側からすれば、生き残る、繁栄する、以外の複雑な思考はないと思われるため、人間によって生かされるか、命を奪われるかは、天災のようなものなのではないでしょうか。
法律的に守られている命もあれば、
人によって可哀そう、大切だと思う命の範囲も違います。
動植物側からすれば、
生きるために他の命を奪うこともあれば、
まったく歯が立たない人間などによって命を奪われることもあります。
逆に、危険に晒されれば人間側に反撃することもあります。
そんな中、動植物が人間に対して尊厳や命の価値を認めているということはないと思います。
この時点で、人間と他の生き物が対等とは言えない気がしますよね。
以上のことから、
「動物の尊厳や価値は、人間側(個人によって差異あり)が一方的に設定している。」
のではないか、と私は考えました。
あなたはどんなことを考えましたか?
機会がありましたら6つ目の問いでお会いしましょう。
それでは、また。
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